(15) 「年齢」と「雇用メリット」について その1

初めに、自分自身が就職活動を終えて、就職活動を進めるにあたっての精神的な「脱皮」というか、そういうものが必要であると強く感じました。僕自身は就職活動を進めるにあたって、段々と「脱皮」していきましたが、就職活動を直に体験したその経験と、自分の心の中での葛藤と、ヘルプしてくれた周りの友人たちのおかげで、ようやくじわじわとすることができたという感じでした。もしも、早い段階で、「脱皮」できていたら、もっと頭の中は整理されていただろうと今では思います。今日から何回か、この「脱皮」について書こうと思います。特に、「年齢」と「雇用メリット」について述べようと思います。

ちなみに、博士の就活について色々書いているが、これは現時点での僕の考えであって、一般的なものでは当然ないし、まだ働いていない学生の意見です。実際に会社に入って仕事をしてみれば、例えば「博士はやっぱり不遇だ」とか、「日本の企業は博士を使いこなせていない」とか、「アカデミアに戻りたい」とか、色々思うことはあるかもしれないし、今と意見が変わるかもしれませんが、とりあえず、就職活動を味わった直後の博士課程の学生としての思いをもとに、話をまとめることにします。企業に入ってから実際どう思うかはそのときになったら書こうと思います。


(15-1)「年齢」の問題:年齢に伴ってキャリアを積んでいるという考え方
先日、ある研究員の方と話していた。「アカデミアって本当に過酷だよね。一生研究し続けてこれで食っていくのはどうなのかとよく思うよ。最近思うのは、今の研究からは離れて、まったく違う職業、細かい作業が好きだから例えば機械をいじる仕事とかもいいかなぁって。」とおっしゃっていた。一文目は僕もそう思う。二文目もみんな少しはそう思っているんじゃないかな。違和感を覚えたのは三文目で、機械をいじるような職業に就きたい、今やっていることとは違う職業に就きたいという点。今の自分なら、ここがとても問題であることがわかるが、過去の自分なら気にならなかっただろう。
問題は、企業には同じ年数だけ費やして向こうのキャリアを積んできた人が当然いるということである。不思議なことだが、企業人の転職の際に前の仕事が影響することは当然のことだろうし、以前のキャリア経験を活かして自分を売り込むのは普通だろうが、大学に残った人はどうしても就職概念が修士辺りで時間停止しているのではないかと思うのだ。前にもだいぶ書いたが、「0から頑張ります!追いつきます!」では基本的にはダメなのだ。たとえ、だいぶ雰囲気が異なる職業に就くときでさえ、これまでやってきたことのアピールは必ず含まれるはずだ。
問題は、企業には通常就職ルートを経て頑張ってきた人間がすでに沢山いるし、毎年若い新卒者がごまんといるということである。そこを正しく踏まえると、この前の企業研究者がセミナーのときにおっしゃっていたことがすんなり耳に受け入れられる気がする。「社内にいないような人材じゃなきゃだめだ」と言っていたのはそういうことなのだ。


博士・ポスドクの最大問題点は「高年齢」である。当たり前のことかもしれないが。
特に高学歴な人に多い印象を受けるが、修士で就職していった同期たちと自分を同じようなレベルだと考え(その時点ではそうだったのかもしれないが)、彼らと同じように就職できると心の奥底では実は思っているのではないか。何を隠そう、僕自身がそうだった。僕自身、就職活動を始めてみて、修士の友人たちのように「うまくいかない」ことに悩んだ時期があった。もちろん「それは当たり前だ」という理性も働いていたが、感情的には心の奥底で「なんでなんだ」と悩んだ。それは、それなりの有名企業に就職できるだろうと心の奥底では本当に思っていたからだ。彼らと自分が「同じ」だと思ってたからだ。だが、3年前とは明らかに状況が変わっているということに真の意味で気付いていないのだ。そこには「年を取った」という概念が完全に欠落していたのだ。
わかっているつもりにはなっている。「あいつ(友人)も、もう社会人3年目かー。」と。自分が年を取っていることはわかっているつもりにはなっている。しかし、それが就職等の際にどう影響してくるかについての実感は非常に少ない印象を受ける。
僕は修士で就職していった友人達とよく会っていたからまだましだったのかもしれない。年々焦燥感は募るばかりであった。社会から段々離れて行っている感覚だけは少しだけ持っていた。これは就職活動を始める上での大きな動機となった。


日頃から「自分はこういう目的のために、今はこういうキャリアを積んでいるのだ」と考えていることは非常に重要ではないだろうか。現在の企業採用の動向や一般的な就職概念からは、明らかに重要な分岐点は修士の1年の冬にある。通常の就職を選ばなかった学生達は異なったキャリアを進めていると常にはっきり自覚し常に留意しなければいけない。