(15) 「年齢」と「雇用メリット」について その2

(なかなかちゃんとした文章が書けない。思いつくままに書くタイプの、観念的かもしれない文章になりがちだけど、まあ思ったそのままを書こうと思う。)


(15-2)博士は本当に「使えない」のか?
「博士は使えない」という話をよく聞くが事実だろうか?
Chaos of breastsブログの8/24のエントリー「博士は使えない」で、Cantorさんが明解にこのことについて言及されている。
その中で、「博士課程出身者の中には企業向きでは無い人物もいるだろう。しかしながら、企業に向かない人は学部卒にもいる」と記載されているが、まことにその通りだと思う。新卒採用で学部・修士の学生が大勢入社するが、学部・修士の人間がみな良い・優れているというわけでは当然ないだろう。どこの世界でも、賢い人もいるし、グダグダな人もいるし、能力はあるが運がなかった人もいるし、能力はないが運が良かった人もいると思う。ただ、彼らは「若い」という圧倒的な資格を持っているが。


以前、文系出身でメーカーの事務職をやっている友人と飲む機会があった。その彼にこんなことを言われた。『博士の人のイメージとして、好きな研究がしたいとか、自分の特性を活かしたいとか、そういうこだわりを感じるが、ひどい言い方をすると、はっきり言って夢追いフリーター、例えばミュージシャンとして大成することを夢見ているフリーターと何ら変わらない気がする。会社に入ってる人間は、学生とは違って、好きなことなんぞできないのは当然で、大きな責任感とストレスを抱えているんだ。そんなにやりたいのなら、どんなに不遇でも低賃金でも好きにやればいいんじゃないか。で、その割りには、アカデミアをあきらめて就職しようって時に、じゃあその理由は?って聞くと、本音は将来性のなさやお金の問題。結局そこかと思う。』
彼は、かなりはっきり言ってくれた。イメージとして、とにかく本音としてどう思っているかを心の底から捻出してくれた。ちなみに『でも…これは言い過ぎだとは思ってる。本当は色々苦労があって大変なんだろうと思うけれども、とりあえずのイメージとしてはこう思ってしまう。周りの人でも本音ではこう思っている人は少なくないんじゃないかな。』と付け加えていた。
このように「好きな研究をしている=遊んでる」という悪いイメージを持った人は結構多い気がする。彼らの本音は、博士は「使えない」のではなくて、「使えなさそう」「使いにくそう」「使いたくない」のだ。


ただし、同時にアカデミアの人間も企業に対して偏見を持っているということも忘れてはならない。よく言われる、「企業では自分の好きな研究ができなさそう」「アカデミアの方が高貴・崇高である、企業は俗っぽい」「アカデミアの方が根本であり、人間社会に対して影響力が強い」「企業では様々な規則や人間関係に縛られる、自由ではない」「企業就職するやつはアカデミアで生きていけなかった落ちこぼれである」、こういった意見は本当に真実だろうか?


両者は、基本的に、お互いを「毛嫌い」しているのだ。お互い「見下している」と言ってもいいかもしれない。理解が相互に足りていないように思える。