学位授与式

先日、ついに学位を取得してきました。一つ一つ、大学の総長から手渡しでもらいます。でも、そのおかげで、相当な時間がかかりました。なにせ、文系・理系合わせてなので、400人ほどいたんです。2時間ぐらいかかりました。結構、暇でした。式自体は非常にあっさりしたもので、一人一人に学位の授与と、総長からのお言葉、それでおしまいでした。


学位記を手にした瞬間は、とても重く感じました。たった紙切れ一枚なのに、なんでしょうか、この重さは。
別に、この紙があったところで、給料が上がるわけでもないし、特別な職業に就けるわけでもないというのに。


手にした瞬間、この紙を手に入れるために行った努力と、費やした日々が次々と思い出されました。
学位を取ることを一度は完全に諦めたのです。あんな紙ッ切れ一枚にどんな価値があるのかと、自分の重要な時間をひたすら注ぎ込むだけの価値があるのかと、そう思って学位取得を見限った、あの時の悔しさ。
そして、自分のやったことが形になり、学位取得の目処が立ったときの、人生はよくわからんなと思った、あの時の嬉しさ。そういうものがよみがえって来ました。


僕にとって、学位は独立した精神の象徴であると思っています。一般に、研究者は、博士の学位を取って初めて一人前の研究者になると言われます。それは、誰かの仕事ではなく、独立した一研究者として自分の研究を始めるスタート地点に立ったという意味だと思います。ただポスドクになっても、ボスの研究の一環として研究を行うことが多いと思いますし、僕のように就職しても0からの仕事というのはあり得ません。よって、現実的には、言葉通り自分で研究を始めることは難しいとは思います。
しかし、精神の独立は可能だと思います。つまり、誰かの指示で道を歩かされるのではなく、どの道が自分にとって面白そうで、意味がありそうなのか。どの道を選択して、どの道を捨てるのか。先人の選択を参考にしてもいいですが、あくまで、自分自身の決断のもとに道を選んで進む。そういった、精神の独立を意味しているのではないかと最近よく思います。
とは言いつつも、僕自身、精神が独立できているとはまったく思いません。まだまだだと思います。すぐ他人に影響されるし、自分の進路に自信が持てなくなったり、違う道がうらやましくなったり、妬んだり。しかし、幸か不幸か、博士課程では、そういった精神の独立のための経験を少し積むことができました。これはとてもいい経験であったと思います。今後も努力していきます。


家族が大喜びしてくれたこともとてもうれしかったことです。博士学位を取得した人が、親戚には一人もいないので、単純にものめずらしいということもありますが、特に両親と祖母は、研究の停止や就職活動、研究の再開の紆余曲折を身近で見ていたので、感慨深かったのかもしれません。


再発行はしてもらえないということもあり、家のどこかにでも、飾っておくことにします。そして、精神の独立を忘れそうになったときに、自信をなくしそうになったときに、自分を見失いそうになったときに、再び眺めることにしようと思います。