今日の名言

『禍福は糾(あざな)える縄の如し』

幸・不幸は、縄をより合わせたように表裏一体であり、一面で判断できるものではない。同じ状況でも、見方を変えることで、どちらにも受けとめることができる。幸・不幸を決めるのは、自分の心である。


『塞翁が馬』
辺境の塞の近くに住む人がいた。その人の馬が逃げていなくなったので、人々が見舞いを言ったら、「この災難が福にならんとも限らんよ」とその人は言った。しばらくして、その馬が駿馬を連れて帰ったので、人々が祝いを言ったら、「これが災いの種にならんとも限らんよ」とその人は言った。そのうちその人の子供が落馬して股の骨を折ったので人々が見舞いを言ったら、「なに、この災難が福にならんとも限らんよ」とその人は言った。その後、戦争がはじまり、若者は兵隊に行って、多くの戦死者が出たが、その人の子供は、骨折の後遺症があり、戦争に行かず、命拾いした。

以上の故事から、運命の吉凶は予測できないということ。災いがいつ福に転じるか、福がいつ災いのもとになるか分からないから、災いも悲しむにあたらず福も喜ぶにあたらない。自分ではどうにもならない与えられた条件の中で、自己を見つめている姿が思い浮かぶ。


『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候。』良寛
以下このHPより

<解釈>災難に逢ったら、それから逃げ出そうとせずに、災難に直面するがいい。死ぬ時がきたら、ジタバタせずに死ぬ覚悟をするがいい。これこそ災難をのがれる妙法なのだ。

災難に逢ったら逢ったで、死ぬときがきたらそれなりにジタバタするな、あきらめて何もするな、流れに任せろ、というのは無気力きわまる。事態の改善をはかろうという前向きの努力もない、投げやりの生き方である。しかし、良寛の言葉をこのように受け取るのは誤解である。
災難に逢い、死に面している「今」を生きることの中には過去が読み込まれ、未来への対処が織り込まれているのであって、災難を避け、乗り越える努力を精いっぱいしてきたことが前提にある。そのうえで、「今」の現実の問題として、死や災難が私のうえに襲ってきている。これは良い悪いの問題ではない。いやおうなしの現実のことがらである。このときに「ああしておけばよかった」と過去を振り返って愚痴を言ってもしかたがないし、「こうなってくれないかな」といたずらに未来を夢みても無益であろう。この現実、この「今」を自分が生き抜かなければならないのだし、その覚悟をみずからにせよ、と言っているのである。自分のおかれた現状を「あるがままに」見、その事実を一度は受け取り、ひらき直り、そのうえでさらなる努力を続けよ。ここからかえって前向きの積極的な生き方が展開していく、というのである。