(25) 博士課程に進むメリット 〜博士の株も暴落するのか?〜

 ポスドク問題は終わったのかもしれない
 アカデミアという名の斜陽産業
 18年も前にポスドク問題の帰趨は見えていた:基礎研究を「益なきもの」と蔑む国に博士とアカデミアの未来などない
 私が博士課程に進学しなかった理由
 これから5年間にバイオ研究者に大きな津波が来る、用意は万全ですか?


出口が見えない現状
上記のように、ポスドク問題(博士課程まで含めて)は、「もうだめかもしれない」というような諦めの境地であるのかもしれない。全体的な不協和音は、修士の学生にも、博士の学生にも、ポスドクにも、ポストに付いている教官にも、すでに知れ渡っているように思える。CNSにファーストで論文を持っていても通らないポスト。「なぜ彼が通らないのだ」という話も耳にするうち、かなり深刻な状況まで来ているのかなと感じている。
また、ポスドク問題の議論のいくつかは、自己責任論へと終着し、出口の見えない構造になっている。「進路は自己責任である」という文言はまったくもって正しい論理である。しかし、間違えてはならないのは、ポスドク問題は、自己責任問題と政策ミスの問題の二面性を持っているということであり、またこれらの性質の根本的な違いである。そして、より重要なのは、現状を作り出した大学院重点化政策の見通しのミスを認めて、現状を打開するための方針をどうするのか、このままでは構造的にアカデミアが衰退するがそれでもいいのかという問題に焦点を当てることだと思っている。
こういう状況において、今更ではあるが、あらためて「博士課程に進むことに価値はあるのか」について考えてみようと思った。今までこの話題を自分がしっかり取り上げなかったということもその理由の1つである。


不安と懸念
博士の学位に本当に価値(苦労して取得しただけの価値)はあるのだろうか。実は、卒業した今でもそう感じることは多い。就職活動をする際にも、学位未取得でも行動を開始すべきだと決断して、ラボを飛び出したのだ。学位取得に自分の重要な時間を捧げてこだわるだけの価値はないと思ったからだ。
さて、僕は弁護士でないから確実なことはわからないが、弁護士が資格を取ったときに、「弁護士の資格を取るために費やした時間は無駄だったかもしれない」と思うことは果たしてあるだろうか。医学生が国家試験に通って晴れて医者になったときに、「こんな免許に意味はない」と思うことは果たしてあるだろうか。博士の学位に価値はあるのかと議論する時点で既に、他の資格とは意味が大きく違うものだと考えられると思う。取らないと気持ち悪いが、取っても食えない足の裏の米粒。自分のキャリアアップに確実な有益性を与えるものでもないし、キャリアパスの安定性を与えるものでもないと考えられる。
博士課程進学者の減少が起こってきているが、これは博士の学位にそれほど価値はない、博士課程に進むメリットはないと、多くの学生が考えるようになってきているからに他ならない。実際、現役の修士大学院生の多くから、このことを直接聞けた。


博士課程の意義
なぜ人は博士課程に進学するのだろうか。モラトリアムではなくポジティブな思考の結果だと仮定すれば、それは博士課程に意義があると考えるからである。博士課程の意義としては、大きく分けて2種類の方向性があると考えられる。1つは、(A)アカデミックキャリアへの通過点としての位置付けであり、もう1つは、(B)ノンアカデミックキャリアに対する有効な自己表現としての位置付けである。
(A)に関しては、通常、博士課程は非常に大きな意味を持っている。学位取得がアカデミックキャリアへの(ほぼ)必要条件であるという点だ。そもそも、アカデミックキャリアを目指して博士課程に入学する学生が多いのはおそらくここに理由がある。学位の価値が高かろうが低かろうが、キャリアを進める上で通らなければならないから、通るのである。多くの場合、学位に価値があるかどうかということに、人は関心を抱かないだろう。この場合は、学位は単なる運転免許証としての扱いを受けている。学位うんぬんよりも、どのような雑誌に、どのような内容の論文が載ったかという情報の方がよっぽど関心が高いだろう。それがキャリアに関係してくるからだ。
一方、(B)に関しては、そもそも博士課程を卒業したらノンアカデミックに就職しようと思い、博士に進学した人たちである。この場合は、博士課程における経験・学位取得がその後のキャリア形成にとって価値があると判断するために進学するのであろう。例えば、企業の研究者として上に上っていきたいと考えている人が、博士の方が有利だと考え、就職を3年遅らせても学位取得しようと判断するのであろう。この場合は、博士の価値そのものが、博士課程に進みたいかどうかに大きく影響を与える。また、ノンアカデミックな就職先が博士を高価値として判断するかどうかに深く依存している。この場合は、学位は運転免許証ではなく、TOEIC800点のような意味合いを持っている。研究がずば抜けてできる証明ではないし、700点じゃあ仕事ができないかと言われればそうではないだろうが、他の人よりもその分野を勉強してきたという一定の証明になるからだ(補足としてTOEICは繰り返し受験できるものだが、博士はそうではないため、そこは大きく異なる)。
ポスドク問題は、ほぼ(A)の人間に対する問題であり、トラックの運転免許証を取ったのに運送業の仕事がないという問題のことである。(B)の人間は、本来はポスドク問題にそれほど関係しないはずではあるが、それにひきずられて悪い影響を受けているか、或いはまったく受けていないかもしれない(この辺りはよくわからない)。実際、工学系・薬学系の大学院などで、企業との連携が強い大学院では、ドクター・ポスドク問題はそれほど問題となっていないという意見も聞いた。就職先企業が博士を採用することにメリットがあると考え、需要供給がマッチしている場では問題はないのである。ただ、もしも、ポスドク問題に引きずられ、学位の価値が下がる、就職先が減るようなことが起きれば、(B)の人間も減っていくだろう。
補足として、(B)の場合は、基本的に、学位取得ができるかどうかというところに進学の大きな判断基準が置かれると思う。企業に入って、論文博士や社会人博士を多く見るようになった。給与もあるし、博士課程への在籍が後の進路にとってリスクとならない状態は、とてもうらやましいと思えた。もしも、どのような方法でも学位が取れると仮定したなら、論文博士、社会人博士の方がよほど安全だと言えるだろう。ただし、論文博士は取得が難しいし、また制度上消えつつあるということがある。実際、制度としては残っているが、論文博士は出さないと言っている大学院もいくつか聞いた。また、修士で就職した企業が博士を取らせてくれるかどうかはわからないため、学位取得という面では不確定要素は大きい。企業が今後も学位取得に価値はあると考えていくと仮定すると、社会人博士が最も重宝されるスタイルとなるのではないだろうか。


キャリアパス支援事業は、博士の学位の価値を維持できるのか
次に、大学院重点化計画というものを考えてみた。博士課程が増加するということは、(A)も(B)も増加することであるが、(A)の将来、つまりアカデミックポストはそもそも拡大する予定がなかった(むしろ減少するという予想だった)。よって、(A)も(B)も増えたのに、その両方を(B)の将来(ノンアカデミックで活躍していく方向性)に吸収させなければ、そもそも成り立たない構図なのである。一方で、(B)の方向性を重点化するために、大学院内で何か変化があったかと言えば、別に何もなかっただろう。アカデミック志向は継続されているし、企業とのコミュニケーションが増えたような実感もない。


キャリアパス支援事業といった公的な支援などは、こういった状況を打開できるだろうか。
前提として、もしかしたら、キャリアパス支援事業は、既に博士課程に進んでいる学生、あるいはポスドクを対象にしていて、後から進学してくる学生に対しては対象としていないのかもしれない。しかし今回は、既に進学した人間と、後から進学してくる人間の両方について考えたいと思う。
ポスドク問題解決のための、キャリアパス支援事業というのは、(B)の方向性を推進する事業であるが、多くはすでに(A)に進んでいる人間に対する(B)への支援策という意味合いが強いと考えられる。アカデミックキャリアを進めない人たちに対する救済策としての役割なのである。すなわち、(A)から(B)への転換である。この場合、(A)の方向性を望んで、博士課程に進学してくる人は、(A)への進路が困難な状況になるか、或いは方向転換しようと決意するまでキャリアパス多様化自体ほとんど興味がないはずだ。(B)ではなく(A)を志望しているからである。
「多様なキャリアがありますよ」という「(A)から(B)への転換」ということは、(A)に進もうと考えて入ってくる学生にとって魅力的な言葉になるだろうか。それは否だと僕は思う。アカデミアの不振を物語る「象徴」としての受け止め方が多く、多様なキャリアがあるからといって(A)に進もうと思う人はほとんどいないだろう。先にも述べた通り、(A)の人間にとっては、キャリアの多様性は問題ではなく、アカデミックキャリアに進めるかどうかが問題だからである。
次に、キャリアパス支援事業が(B)を目指して入ってくる学生にとって魅力的な言葉になるだろうか。これは先の(A)の人間の話とはまったく異なる問題となる。(A)の人間にとっては少なくとも救済策であったが、(B)の人間にとっては救済策ではない。現在行われているような事業によるキャリアパス多様化が(B)の人間にとって魅力的かと考えると、残念ながら、それほど魅力的ではないと僕は思う。
最近、いろいろな場所で、「博士を取ってこんな職業に就いている」という記事を読む機会が増えたが、読んでも読んでも、いつも根幹に深い疑問を感じていた。というのは、例えば、博士の学位をとって、漁師さんになった人がいる。教師になった人がいる。新聞記者になった人がいる。これらの多くは(A)→(B)への転換が多いのではないかと考えている。(A)→(B)への転換に問題を感じているのではない。それはまったく素晴らしいことだと思っている。問題は、職業多様性を博士の「売り」の1つにしようとしているのではないかというところである。漁師になりたいと考えている人が、学位を取ろうと思って果たして博士課程に来るだろうか。教師になりたいと考えている人が博士まで進学してくるだろうか。新聞記者になりたいと考えている学生が、博士の学位を取りたいと思うだろうか。大学院は、漁師養成機関ではそもそもないし、教師養成機関でもないし、記者養成機関でもないのだ。(B)の人間にとって、博士課程に進みたい、学位を取りたいと思うかどうかは、就職先の業界が博士課程の経験をポジティブと判断するかどうか、学位に高価値を置くかどうかに大きく依存している。もしも、学部卒・修士卒であっても、その業界に進むことができて、十分に能力が発揮できるなら、多くの人間は博士課程に進みたいとはそれほど思わないだろう。
キャリアパス多様化が、すでに進学している学生や卒業したポスドクに対してではなく、新たに入ってくる学生にとって、大学院自体にとって、有効に働くかどうかは、別の問題である。支援策が、学部・修士の人間にとって、輝かしいものとして移るかどうかは、極めて重要な問題である。多様なキャリアパスを謳っている場合には、その謳われたキャリアにとって、博士課程や学位が有効に働くことが大前提として必要である。もしそうでなければ、博士課程に行くことは、例えば、海外で1年間1人旅してきたというようなたぐいの経験と同じようなものとしてしか価値がなくなる。
以上のように、現状で行われている事業のほとんどは、新たに入ってくる学生にとってほとんど魅力を与えないであろうというのが今のところの感想である。よって、学位の価値はずるずると低下し、博士課程に進む人間はずるずると減少していくだろう。
また、いくつかの大学ではノンリサーチキャリアを特に広告しているが、ノンリサーチキャリアは決して主流にはならない。多くの大学院では、ノンリサーチのための教育は行われていないし、そのような経験が得られるわけでもないし、今後ノンリサーチのための機会が増えるとも思えない。よって、ノンリサーチキャリアはあくまで補助的な部分しか占めないはずで、リサーチキャリアが主たる方向性なのである。なぜなら、大学院で学んできているのは研究であるからである。ゆえに、ノンリサーチキャリアを推進するということは本流のキャリア支援からは外れているのである。大多数の人間が、学んできたことと違う方向性に進むなど、本末転倒も甚だしい。大学院では研究を学んできたのだから、それを活かした職業の開拓を行うのが、本筋であり、そこから眼をそらしてはならない。


企業における学位保持者の価値
学部、修士、博士に対する企業の評価は、その分野や個々の企業によって、極めて多様であるというのが基本にある。けれども、それでは話が進まないので、私の身近な分野における学位保持者の待遇について考えてみたいと思う。
先にネガティブな事項についていくつか考えてみたいと思う。
まず基本的に、企業では博士卒というのを積極的に評価しているということはほとんどない。企業において、修士卒と比べて、博士卒にしかできない仕事というものはまずない。また、多くの企業では、博士卒と修士卒を比べて給与に差がない場合がほとんどである。実際、博士卒の初任給は修士卒の人が同じ年になった場合の給料とほぼイコールであるだろう。よって、実質的に待遇としては「博士=修士+3年」という評価であると言える。学位自体の評価というものは企業では待遇面ではほぼないに等しい。
一方で、ポジティブな事項についても多数存在する。
例えば、私の会社では、いわゆる研究系管理職以上の人間は学位持ちの人が多い(全てではない)。このことは、企業がキャリアにおいて学位所持をポジティブに捉えているということなのか、たまたま優秀な人に学位保持者が多かったということなのか、それとも優秀な人に社会人博士などを通して学位を与えたのか、どういう理由なのかはわからない。が、結果としては、そういう状況になっている。ちなみに、このようなことは研究職において見られることであり、開発職などではそうではない。
また、実感として、学位保持者の方が受ける期待が高いということは感じている。このことは、重要なプロジェクトに付けられやすいということを意味するかもしれないし、よって大きな功績に関与しやすいということを意味するかもしれない(ただしケースバイケースという雰囲気が強い)。
また、企業にとって博士を取るということ自体のメリットというのも無きにしも非ずであると感じる。
例えばアカデミアとのコネクションという意味合いである。博士卒であれば、在籍していた研究室との関係は相当に強いであろうから、また学会等での活動も盛んだろうから、その分野のコネクションを期待しているというのは十分にある。また、企業が新規のプロジェクトを始める際の、即戦力人材としての役割もあり得る。他にも、特に中規模企業にとって、アカデミア不振が逆に幸いして、優秀な停滞人材を見つけるという目的での採用もあるのではないかと感じる。
以上のように、企業においての博士の学位は、「大きな評価はないが、ある程度の評価はある」程度の位置付けではないかと感じる。ただ、はっきり言うと、学位があるとかないとかよりも、個人の力量が最も重要であり、それにプラスして博士課程での経験が物を言う感はある。また、企業関係の薄い基礎科学では、博士卒の評価はより低く、関係が強い・強まる可能性が高い応用科学では、評価はより高いだろう。また、企業にとって、その人のバックグラウンドが業務に関係あるかないかによっても、評価もだいぶ変わってくるだろう。
今後、企業キャリアにおける学位の位置付けはずるずると後退するかもしれない。博士課程に進むことによるキャリア多様性の消失・安定性の減少などを考えると、企業キャリアのために博士課程に進むことには、残念ながら現状魅力を感じない。おそらく最もありえるのは、先にも述べた通り、企業における学位の価値はある一定レベルで保たれながら、安全な社会人博士が増えるor現状維持されるということではないだろうか。


学位の価値を下げる負の連鎖は今のままでは止まらない
学位の価値を下げる負の連鎖はこのままでは止まらないだろう。「末は博士か大臣か」と言われたぐらい、元々は非常に高価値なものであった。実際、専門外の人と話すと、「博士学位持ちなんだ、すごいね」と言われることもある。このように、ある一定の良いイメージは現状はまだ存在する。しかし、今後は残念ながら学位の価値は下がっていくだろう。
自分が学生のときにも、実に身近に、博士の価値の低下を象徴的に表す機会がなんどかあった。例えば、以前にも話題に上った、博士の派遣社員問題。修士に進学する学生でさえ、最終的な目標として派遣社員を心に描くことは決してないだろう。博士の学位を持ったものが、派遣社員として働くという事実は、たとえそれが実に稀なケースであったとしても、著しく価値を下げる現象であるだろう。
他にも、例えば、博士学位を持っているのに技官として働く人たちの増加が見られる。ポスドク職は現状、まだ豊富に存在するとはいえ、博士技官の出現は身近に何度か起きていた。自分が研究室に入った頃は、残念ながら想像できなかったケースである。もし、今後、文部科学省等で任期制職員雇用の見直し、キャリア支援事業の縮小などが起きてくると想定すると(既に一部は決定しているが)、博士技官の数は徐々に増加することになるかもしれない。
現状、既に博士課程に進学する学生の数は減少してきている。それにともなって、無給労働力の低下が起き、特に実験的生物学などでは、深刻なダメージを負うことになるだろう。その労働力の低下を埋めようとして働く大学の策。これがまた著しく価値を下げているように感じる。例えば、学生を金銭面などで支援することによって、表面的に学生の確保を行おうとする策。欧米では博士課程で給与を与えることも多いため、博士の学生を金銭面で支援することは実はそれほど問題ではない。問題なのは、この時期にこうした政策が出てきたということである。これは、とにかく金で学生を「買ってでも」いいから、低下する労働力を食い止めて、学生を掻き集めたいという、大学側の意思を残念ながら感じてしまう。本来は、「博士課程の質向上の一環」として経済的支援が行われるべきなのだ。さらに、どこまで進んでいるかはわからないが、海外からの留学生(とくにインドや東南アジアなどの新興国)によって、低下した労働力を穴埋めしようとする動きもある。研究室が国際化することは、本当は喜ぶべきことなのかもしれないが、現状ではただ単に「日本人は集まらないから外人を」という動きにしか見えない。
労働力の低下がさらに深刻化すると、お金がない研究室が真っ先にダメージを受け(中小企業の破産と同じだ…)、お金がある研究室は、お金で学生を集めるか、それでも集まらなければ例えば派遣社員を技官として採用する、そういった状況になるのではないかと思う。
このように、博士の学位を持っていても職に就けない人が大勢いる、就職先企業・職種が期待値を大幅に下回る、目先の労働力を確保するために博士の学生を支援する、他国からの留学生を安易に受け入れて補完する、こういった状況は、おそらく、博士の価値を多大に低下させていくのではないだろうか。


解決としての1つの可能性は、大学企業間連携にあると僕は思う。というか、大学企業間連携にしかないと僕は思っている。先にも述べた通り、博士卒で、国家公務員や教員、科学技術コミュニケーターや報道関係などに進むことはまったく素晴らしいことであると思っている。しかし、現状の博士課程の多くは、やはり研究者育成の機関であり、ノンリサーチキャリアのための経験をつんでいるわけではないのだ。多様な方向性は必要であるが、主流はやはりリサーチキャリアであると僕は感じている。繰り返しになるが、大多数の人間が、学んできたことと違う方向性に進むなど、本末転倒も甚だしい。「料理学校を出たのに、その大部分が事務職へと就職する」、例えばこんな料理学校があったとして、そんな学校で料理を学びたいと思うだろうか?
大学は独立行政法人化したことによって、経済的にも大学の個性としても、様々な多組織との連携を図ろうと動いている。また、知的財産部を持ち、大学から出たシーズを企業化する、商品化するといった動きになっている。こういった時勢においては、博士は、高等知識や技術を持った人材として、大学にとっての商品になっていくはずだ。なぜなら、研究とは結局のところ、人であり、物や情報そのものではないからだ。
このような人材の交流、キャリアの流動によって見えてくる研究の連携が、現在の問題の解決の一端を担っていると思えてならない。ただし、現状取り巻く状況は実に悲観的である。多くの大学発ベンチャーの経営状態は悪く、人材にとって魅力となっていない。強固な新卒制度や、35歳の壁といった社会的な非流動雇用体系によって、人材の活用はうまくいっていない(アカデミア単体で人材の流動を実施しても周りが流動しなければ、単なる首切りと同じ結果になる)。少しずつ状況が改善していくのを願うしかないというお上の姿勢。すべては悪循環に陥っている。今後、キャリア不振がさらに深刻化すれば、学術環境すべてに影響を与え、全てが悪い影響を受けるだろう。人材の価値そのものが低下すれば、人材流動化の意義も低下していくだろう。
現状、特定の分野では状況が改善していくのか、それとも、全体的に悪化の一途を辿るのか、よくわからないが、報道などを見ているレベルでは、ポジティブな要素はほとんど感じない。
不思議に感じるのは、そういったネガティブな状況下ではあるが、それを何とか打開していこうという大学側の策があまり出てこないことだ。例えば、大学院の間に、1年か2年、企業へ赴いて共同研究し、大学企業間連携を深めることを前もって入学の規定に定めたような大学院がどんどん出てきてもおかしくはない。インターンシップの積極的な推進を売りにした大学院が出てきてもおかしくはないはずだ。


もう1つの解決策は海外で働くという道であると僕は思う。日本の科学技術が衰退しようがしまいが、20代や30代の若者が、個人の責任として負うような問題ではない。
日本の場合、新卒人材以外の中途人材は、一定期間以上の類似した業務が必要とされる場合が多い(少なくとも書類上は)。例えば、営業経験3年以上とか、臨床開発業務5年以上とかである。アカデミアで研究を行っていれば、このような業務経験があるわけがない。また、年齢制限や経歴にも五月蝿い。よって、より寛容な、海外の企業に就職して、その後に日本の企業に転職するという道もあるのではなかろうか(日本に帰ってこなくても良いが)。この場合問題となってくるのは、外国で長期働けるのか否かといった問題である。語学の問題や家庭環境の問題、国籍やビザの問題などである。
もしもそういった問題をクリアできるならば、アカデミア人材の倦厭や、バイオ企業の不振などといった、日本特有の状況は打破できるのであるから、よりスムーズに就職活動が進むかもしれない。
ちなみに、研究者個人の幸せを願うなら、海外就職への支援がもう少しあっても良さそうなものだが、日本国としては人材の流出を招くから、それを支援するわけにはいかないだろう。よって、そういうものはあまり期待できないだろう。
日本の科学環境が改善していくのか衰退していくのかわからないが、そういったものに自分が犠牲になるのは実にもったいないことであるので、そういったことから逸脱するという方法の1つであるように思える。何年何十年か経った後に、日本に戻ってくるか、あるいは戻って来れない状況になっているかはわからないが、個人のキャリア主体で考えると日本を脱出するという方がいくらかましに思えてならない。