(22) アカデミアへの進路の固定はどうして起こるのか

はじめに

ちょっと前のことになりますが、テレビ番組で取り上げられたことなども影響し、いくつかのブログなどでいわゆるポスドク問題が加熱しています。そういったところでの議論をざっと見た感想では、進展に向けて気持ちの面では前向きな意見が多くなってきてはいるが、具体的な良策は見えないし、悲観的なムードはやはり漂っているという感じを受けました。
バイオテクノロジージャーナルという月刊誌があり、そのポスドク記事を読んでいるのですが、8月号では「ポスドク問題は、最悪の形で収束する」と書かれてありました。実に悲観的な一文ですが、それが現実のものとなりうるかもしれないなと正直思ってしまいます。


さて、これまでいくつか博士の就職についての文章を書いてきましたが、記録しておくべき文章がもう一つあるとずっと感じていました。それは、「なぜ僕は就職活動することになったのか」ということです。さらにこれを分割して、「なぜ長い間、企業就職する思いがなかったのか」、「企業就職する思いがなかったのに、なぜそれが現れたのか」ということに焦点を当てて述べてみようと思います。より具体的に言うと、修士課程から博士課程へと進学する際に、就職活動しなかったのはなぜか。そして、そのとき就職活動しなかったのに(=アカデミアを希望したのに)、博士課程を経てなぜ企業就職を望んだのか、ということです。このことは、博士課程で就職活動する人にとっては、特に、アカデミア希望をやめて企業就職しようと望む人にとっては極めて重要なポイントとなります。志望動機に直結する根幹であると言えると思います。
ちなみに以下の文章は就職する前にほとんど書いていた文章です。そのため、就職活動後、就職する前の学生が思った文章になっています。


ポスドク問題などに関して、僕が何か残せるとしたら、それは、学生やポスドクが進路を考える上での情報ぐらいのものだと考えています。ポスドク連合を作るなどといった提案は素晴らしいとは思いますが、僕に何かできるとは思えません。
ただ、学生やポスドク個人個人が、キャリアをどのように考え、偏った思考からいかにして脱却するかということが極めて重要である気がします。そうやって、個々の人間が地道に就職活動を考えることでしか、現在の状況を脱することはできないと考えています。


ところで、研究や就職活動というものは、個々人の状況がみな異なるということも問題を難しくしていると思います。よって、僕自身の個人的な問題に絞り、自分の場合ではどう考えたのかということだけに焦点を絞って述べたいと思います。ゆえに、一般論であると誤解のなきようにお願いしたいと思います。ただし、理学系の人は、理解してくれる部分が多いのではないかと思っています。





なぜ、僕は、研究が心底滞るまで、「企業に就職する」という概念が存在しなかったのか。これについて考えてみたい。

当初から、本当に、企業に就職したいと思う気持ちはこれっぽっちもなかったのだろうか。
実は、自分自身、院試の面接で、「博士課程に進学するかどうかは、修士課程を過ごしてみて、自分で吟味し選択することにします。」と言っていたのだ。そもそも、何が何でも博士課程に進学するつもりではなかった。「アカデミアで食っていくんだ!」と決心していたわけではなかった。にも関わらず、吟味する機会、進路を選択する機会をほとんど持たなかったのは一体どういうことか。


研究の楽しさを知ることと、進路選択時期のタイミングの悪さ
まず、研究室に親しんでくるにつれ、知識や技術を習得し、訳も分からずただ言われた通りしている部分が多い段階から、自分自身で実験を立案し検証する段階へと移る。同時にその時期は「研究が楽しくなってくる」時期でもあった。或いは楽しくなくとも、「いろいろ試して検証してみたくて忙しい」時期であった。
博士課程後期にもなると、例えば、「とにかく学位を取るために完成させられる研究を行う」といったある種打算的な研究課題もありえると思うが、修士の間は、与えられた研究課題そのものに面白さ、科学的な重要性を見出していた面は強かった。
そのため、たとえ研究がうまくいかなくとも、ポジティブに表現すると「もう少し色々探求してみたい」という思い、ネガティブに表現すると「答えが出ていない今の時点で放り出すわけにはいかない」という思いが強くあった。
ところで、生物系の修士の就職活動は非常に早いため(青田刈りのため)、特に製薬業界は修士1年の9月10月頃から始まる。「研究に慣れて楽しくなってくる頃」と「就職活動が始まる頃」がちょうど重なった印象がある。「もう少し研究を続けてみたい」という思いはかなり強かったように思う。学部4回生から研究室に所属していれば、1年半程度。院から所属すれば半年ほど。このタイミングでは、「進路選択」なんぞあってないようなものであって、最初から企業就職のウェイトがかなり高くないとなかなか実際の行動には移せないであろう。このタイミングの悪さはかなりネガティブに働いたように思える。また、デフォルトが博士進学になることも注意すべき点だ。多くの大学院では博士進学の実質的な試験がないため、外に出るという行動を起こさないとほとんど自動的に博士課程に進学してしまうということになる。「とりあえず」博士課程に進んでしまうということだ。以前にも述べたように、学生の進学に対して教官が負っているリスクやデメリットというものはない。深い思慮なしに修士の学生が博士に進もうとも、教官は何ら傷付かないため、デフォルトの博士進学を止めるという行動を取る良心的な教官はほとんどいないだろう。


アカデミアという空間に所属することによる、価値観の固定化
人間というものは、自分自身の目で見える範囲の物事から情報を得る傾向が強い。師事する人や周りの同僚からの意見に強く影響される。
学部の頃から、「とりあえず」みんながアカデミアに憧れている雰囲気は強かった。アカデミアは崇高である、科学に献身することは美徳である、といった思いを徐々に植えつけられていく。学部3回生・4回生になり、研究室に所属すると益々このことは強くなっていく。
また研究室では博士課程の先輩がごろごろいて、研究室において博士に進学することが奨励されている(というか、進むことが当たり前)という雰囲気を味わった。優秀な人間が博士過程・アカデミックキャリアに進むのだという価値観を与えられる。研究がうまくいかなかった人間、アカデミアで生きていく自信がない奴が就職するのだという印象を同時に味わう。就職することはドロップアウトであるという印象を植えつけられる。世俗への排他的意識が強固になっていく。


単一化した評価と、成果に対する執着
一端属すると、評価基準が明確化するために思考が単純化する。高度な成果を挙げるために、研究に勤しむ姿が素晴らしいものだとされる。
学生のアイデンティティーが、研究進展や論文によって左右される状態になる。そこで、「優れた研究をして発表したい」「有名なジャーナルに論文を出したい」「学振を取りたい」などという思考になる。自分に自信が満ち溢れている人が多いので、自分の能力を披露したいという欲求に突き動かされる。
また、他者との競争関係になるので、「他人より抜き出たい」「負けたくない」といった思いも強まる。うまくいかなかったりすると、「悔しい」「改善したい」「もっと頑張らなければならない」という思考になる。
研究が当初からうまくいけば、「自分はアカデミックキャリアを順調に登っている」と考える。うまくいってなければ、劣等感による対抗意識が芽生える。修士の間の研究進展は、与えられたテーマの性質や、指導者との相性などなど、本人の能力そのもの以外の因子も多いように感じられる。ゆえに、「テーマが悪いだけで、自分だって他人と同じように研究を進展させることができるはずだ」「自分の能力の評価が依然として確かめられていない状況で、ドロップアウトすることはできない」という思いが起こる場合も少なくないだろう。
このように、一心不乱に研究に集中するスタイルが形成されていく。さらに、アカデミアへの憧れと、昨今のアカデミックキャリア不振が折り重なって、「一心不乱に研究に打ち込まないと生き残っていけない」という一種の焦燥感が生み出される。研究の推進に自分の全ての時間を注ぎ込もうとするのである。これも、進路の吟味にマイナスに影響している。


ところで、バイオの世界では、いつ何時でも、最高級の研究結果を自分が「偶然」見つける可能性があるという思いを誰でも持っている。博打要素と言ってしまってもいいかもしれないが、そういう要素があるがゆえに、続けている限り、逆転の可能性・最終的に「勝つ」可能性があるのだ。「もう一押しすれば、何か面白いことがわかるかもしれない。」、これはずっと体に纏わりつく。
これは結構怖ろしくて、「相当試してみたがダメだった」という決定的な事実が現れない限り、進路の決断を再考することが非常に困難なのだ。「もう一歩進めば、一気に世界が広がるかもしれない、一発逆転できるかもしれない」と、逆転の可能性に賭けている限り、いつまで経っても泥沼に陥るということもあり得る。
「自分の能力が足りなかった」や、「ここで必要な能力は、自分の持っているものとは違う」といったような、自分自身のことなら人間諦めがつくが、ただ「運が悪かっただけ」と思えば、それを諦めようとするのは容易ではないだろう。自分に自信があり、プライドが高い人たちならなおさらだ。
進路の吟味の再考に、深い諦めや挫折、或いは長い時間がかかるのは、こういう原因があるからである。

逆に、じゃあ実際に論文を出して学位を取って…という感じにうまくいったとして、その後どうなるのかというところを考えると、そういうところまでは思考はなぜかほとんど到達していなかった。「できるだけいいところに論文を発表して、学位を取ればなんとかなる」という思いが意識を支配していたように思う。


恵まれた環境による影響
有名研究室に進めば進むほど、お金は潤沢にあるわけだが、その中で研究していると、「自分は最先端の科学を担っている」という自負心が芽生える。別に、ただ学部のときに偶然その研究室に入ったに過ぎないのに。院試に受かっただけだというのに。もちろん、先の先まで見越して研究室を選んで来た賢い人もいるだろうけど、多くの場合は興味本位ではないだろうか。
で、そういった状況にいると、自分の成果が認められて、その場にいるような錯覚を覚える。バイオに注ぎ込まれた多額の公的資金によって、様々な場所においてインフラの整備が進んでいると思われるが、そういったものも学生の自己価値を高める一つの要因になっている気がする。つまり、国から認められ、世界を相手に働いているような、最先端科学の第一線で働いているような錯覚に陥るのだ。国家の科学技術振興政策の一員を担っているかのような感覚に。
こういう感覚も、「自分の進路選択は間違っていない」と思う原因の一つになるのかもしれない。そして、最先端科学に携わっていると思っているがゆえに、就職活動をすることになっても引く手あまただろうというよくわからない自惚れが生まれる場合もある。


企業との接点、アンチ企業
理学系の研究室の多くの場合、企業で働いている人と接する機会というのは、ほとんどない。学部・修士で就職していった友人などの交友関係を除けば、研究室にいて、企業人との接点はほとんどないだろう。また、理学部系の研究室から企業就職していった人たちの多くは、「アカデミアからおさらばした」感覚を持つ人が多いと思うし、毎日働いているのだから研究室に「遊びに来る」こともほとんどないだろう。ゆえに、そういった人たちとの接点もほとんどない。工学部のように、推薦が来たりリクルーターが来るわけでもないので、そういった機会もない。ジョブフェアもインターンシップもない。

バイオ分野の特有な問題かもしれないが、日本では、バイオの会社として魅力が高い企業の数が少ないということが挙げられる。電気電子や機械、化学などの分野と比べると、有名企業の数は一目瞭然である。
そのため、企業に就職することに対する魅力が比較的小さい。生物学そのものには魅力は非常に大きいので、最先端の生物学をとなると、「アカデミアで学ぼう」という意識になりやすい。

バイオ業界は研究開発ではなく販売にウェイトが高い会社が多いため、身近に接する企業人は営業職である場合が多い。研究に進む人の多くは営業職を嫌う傾向にあると僕は思うので、「彼らのようになりたくない。」と思うのではないだろうか。
自分の仕事と似たような職種で、イキイキと仕事をしている企業人を見たことがないというのが本当の所である。多くの場合、企業で働く研究者もまったく見たことがないのだ。ちなみに、そういった状況なのに、「企業での研究は面白くない」と考える人は多い。見たことがないのに。


また、そもそも、アカデミアで生きていきたいという人の多くは、根底に「アンチ-企業」という発想を持っているがためにアカデミアに進んだ人も少なくないのではないだろうか。
世の中のサラリーマンのように、企業の歯車になりたくない、やりたくもないことを命令されてやりたくない、満員電車に揺られながら毎日苦痛な表情を浮かべて出勤したくない、と。「自分の好きなことをしたい」というのは、そういった意識の最たるものである気がする。
お金を儲けることや、世間で有名になることなどにあまり良いイメージを持たず、世俗を拒否する傾向にある。
その延長線上で、企業を世俗と捉える傾向は強い。
また、「やりたいことをするために、お金を犠牲にして、アカデミックの研究者を選んだのだ」という意見も根強い。そのために、実にくだらないことだが、企業に就職すると言うと「あいつはお金を稼ぐために夢を捨てて妥協したのだ」と思う人が少なくない。ドロップアウトとはそういったイメージの総称であり、要するに現実的な生活のために、夢を諦めて妥協するということである。企業への就職をドロップアウトとイコールする人が極めて多い。


ゆえに、じゃあ企業就職も考えてみましょうかという時になると、このような考えが根底にあるので、程度の差はあれ、心で決めていたこの「アンチ-企業」を否定しないことには、企業就職するわけにはいかないのである。
さらに、博士課程に進むことが企業就職に悪い影響を与えることをある程度知っているために、「今さら、戻るわけにはいかない」「最低限、博士課程に進んで良かったと思える物(多くの場合は学位、自分達が思っているほど社会にとっては価値は高くないのだが)を得ないとあきらめるわけにはいかない」という思考に陥る場合もある。
深い諦めや挫折がないと考えが変わりにくいのはこういう理由があるためであろう。

企業=世俗の図式は真に恐ろしいと思える。いつの間にこんなことになってしまったのだろうか。そもそも大学に入った時はこのような思いはほとんど持ち合わせていなかったのに。環境による思考の形成は本当に恐ろしいものである。


研究室内の他の人間からのアドバイス
人間は困った時にとりあえず近くにいる人間にアドバイスを求めることが多い。研究室の場合、最も近くの人間にアドバイスを求めると、研究に関しての助言になる場合がほとんどだ。研究が滞った際にアドバイスを請うと、担当教官、先輩、同期などは「どうやったら研究がうまくいくか」という話に終始する。
というのも、彼らはアカデミックキャリアしか進んだことがない、就職活動すらしたことがない人がほとんどだと思うので、企業就職がどうであるかということに関しては有効な助言を一切できないという事実がある。

また、自分がアドバイスを与える側になってみればよくわかることだが、本人がアカデミックキャリアを少しでも前向きに考えている場合(ほとんどの場合はそうだと思うが)、「就職活動を考えてみるのもいいのではないか」「アカデミアだけが進路の選択肢ではない」と伝えようとすると、「過小評価されている」「アカデミアで生きていけないような能力だと馬鹿にされている」と受け取られやすい。心の底に、就職=ドロップアウトであるという概念がある環境においては、就職活動の話を持ち出すことは、相手を侮辱していることと同義になってしまうのだ。よって、そういったアドバイスは、最後の手段とでもいうか、かなり躊躇する傾向がある。

もう一つ、いったん、博士課程に進むと担当教官に進言すると、助手・助教授や研究員・ポスドクの下に付いて比較的長期の研究計画を進める場合が多い。その場合、学生の研究が進行することは、その研究指導者達の利益になるわけで、逆に就職活動を始めてしまうと研究が停滞し、研究指導者達は不利益になるわけである(研究進行で直接不利益にならない場合でも、「うまく教育できなかったがゆえにアカデミアを離れる」という印象を周りに与える)。ゆえに、当然、研究指導者がアカデミアを離れる進路に関して自ら助言する場合はほとんど皆無だろうし、ポジティブに考えてくれる場合も少ないだろう。この種の助言は、研究指導者の『良心の呵責』に支えられていると言っても過言ではない。さらに、周りの人間が、その学生に対しアドバイスを与えるのも煙たがられるというケースが多い。「本人が望んでいるんだから、余計なことを言うな」という具合にである。さらに、非アカデミアキャリアプランについてアドバイスできる人間というのは、現在のところ多くの場合では、就職活動を終えて研究室を離れる前の修士・博士の学生であって、上記の研究指導者達よりも年齢が若いため、立場が低い場合がほとんどだ。よって、アドバイスしにくいといった事実があるのだろう。ゆえに、非アカデミアキャリアについて話を聞く機会というのは、ごくわずかな時間・人間からしか存在しないのが現状だと思う。



以上をまとめると…、
『アカデミアの世界の体系に深く影響されて、優劣の価値観が単一化した印象が強い。科学と世俗、勝ち組と負け組という二極化のイメージもいつの間にか確固たる物として形成された。また、他者比較、自己顕示欲などにより、嫉妬心と焦燥感も視野を狭める原因となった。また他者からのアドバイスも研究の問題解決に限られ、多様なキャリアパスを考慮する機会は学部から博士までほとんどなかった。』
というような感じになるのではないだろうか。